ユダヤ人の思考法
致知出版よりシェア
今まで、ヒトラーは、何故、一つの民族を消そうとするほどユダヤ人を恐れていたのだろう❓
ユダヤ人は、守銭奴と言われながら、傑出した人材を輩出し続けてるのだろう❓
疑問でした。
この記事を見て納得です❣️
今、宇宙から直接来ている、クリスタルチルドレンなどと言われる方達が増えてきています。
社会の決まりに納得出来ないまま苦しんで暮らしている人たちが…
ユダヤ人のように、地位や年齢に関係なく「何故❓」を問いかけて答えてくれる環境になれば、素晴らしい世の中になるのではないかと思います😄
「この地上に義しい者は一人もいない」「誰でもどこか間違っている」
この地上に義(ただ)しい者は一人もいない(伝道の書7章20)——これがユダヤ教の根本的な思想です。
イスラエルなどのユダヤ社会では、「誰でも(自分も)どこか間違っている」ということを前提に、答えを限定せず、どんどん議論を重ねていきます。教科書やマニュアルに書かれたことを絶対的なものとし、ただ一つの「正しい答え」を求めるわれわれ日本人とは、大きな違いでしょう。
実際に、ユダヤ経典の集大成とされる『タルムード』でさえ、本文と併記して、後世の学者の見解や詳細な注釈が加えられており、いまでも原典に新たにページを糊付けしていく形で、内容が付加されていっています。
そのため、目上の人や教師の言うことでも鵜呑みにはせず、徹底的に自分の主張を述べるので、とにかく議論は激しいものになります。ただし、意見を述べる権利があるのは、人と違う考えを持っている時だけ。つまり「違う意見が盆の上にのればのるほど、真理に近付いていく」という考え方なのです。
たとえば日本では、論文を書く際、「カントによれば……」「ヘーゲルによれば……」といった表現をよく使いますが、彼らはそうした記述にさほど評価を与えません。「それは誰かが言ったことで、お前の意見ではないだろう」と言われておしまいです。
ユダヤ人は相手が目上の人、上司や先生などとは無関係に問う
彼らの民族性に魅せられているもう一つの点に「問いをかける姿勢」があります。
そもそも、ユダヤ人の日常の挨拶が「マニシュマ」(あなたは何を聞かせてくれますか?)なのです。彼らは相手が目上の人、上司や先生などとは無関係に、「問う」のです。相手が自分の子ども、部下、生徒、年下であろうが、関係ありません。とにかくまず問う。その姿勢は、彼らの口伝律法の書にある「賢者とはすべての人から学ぶ者である」という言葉に、如実に示されています。
一方、日本では、「問う」という習慣があまりありません。この国にも、「聞くは一時の恥……」というよい諺があるのですが、なかなか行動には結びつかない。特に、目上の者が目下の者に対し、虚心坦懐に尋ねるといったパターンは少ないのです。
しかし、親にせよ教師にせよ、その問いかけを、子どもや生徒たちに向けて行う習慣を持つべきだと私は思います。大人のそういう姿勢を通じて、子どもの中にも「問う」という習慣が自然と身についていくのではないでしょうか。
いまの日本の教育現場では、質問をすれば怒り出す先生もいると聞きますが、これはとんでもないことです。学問や真理のためにはすべてが平等であり、それが学生であろうが、教授であろうが、何の差異もないはずです。ユダヤの口伝律法書にも書かれている、「恥を恐れるものは学ぶことができない」という言葉を、われわれは噛み締めるべきではないでしょうか。
あらゆるものを疑い、すべてに問いをかける
あらゆるものを疑い、すべてに問いをかけるという姿勢——これは、ユダヤ人の中からノーベル賞受賞者が多数出ていることや、金融、産業、政治、芸術など、多分野にわたり成功を収めていることとも、決して無関係ではないでしょう。
「義しい者が一人もいない」。その立脚点に立てば、出される問いが一つであっても、答えのほうは無数にあることが分かると思います。
私たち日本人は、子どもの頃からの教育によって答えは一つしかないと考えてしまいがちです。そして権威や権力に対し、あまりにも従属的に行動する習慣がついてしまっています。
日本はいま、大きな転換期を迎えていますが、これまでの常識に疑問を持ち、これからいかに歩んでゆくべきか、問いを発し続けることによって、新たな道が開いてくると私は信じています。
◇前島誠(まえじま・まこと)——ユダヤ教研究者
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