受け容れるということ
人の心に灯りをともす よりシェア
小林正観さんの心に響く言葉より…
「自分の子供が不登校になってしまった。どうしたらいいだろう」
という相談を受けたという話を書きました。
結局、不登校になった子供を受け容れれば、受け容れた瞬間に、その問題は何も生じなくなってしまうのです。
問題が解決してしまうというよりは、問題そのものがなかったということに気がつきます。
「問題だ、問題だ」と言っていた自分の問題であって、もともと不登校そのものが問題なのではなくて、それを「問題だ、問題だ」と言っている自分の心の問題として、それが悩み・苦しみになってしまったということでした。
子供が不登校になった、学校に行かなくなった。
ただそれを淡々とした事実として受け容れた瞬間に、子供にとっても自分にとっても、何の悩みも苦しみもなくなってしまうのです。
思いどおりにしようとしないこと。
それはイコール、その目の前の現象を受け容れるということでもあります。
生老病死(しょうろうびょうし)、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことも、そのまま受け容れる。
そうすると、悩み・苦しみから遠ざかることができます。
悩み・苦しみを持たなくても済むことができます。
病気をしたら病気をしたでよし。
死ぬようになったら死ぬようになってそれでよし。
愛している人と別れなければいけない状況になたらそれもよし。
それについて評価・評論をしない。
感想もいちいち言わない。
「ああ、そういうふうになりましたか」というふうに受け容れることが、自分にとっていちばん楽なのです。
そんなに簡単に受け容れられるわけがないではないかと言う人がいるかもしれません。
私は受け容れる「べき」だという理論を展開しようとは思っていません。
受け容れることでいちばん得をするのは、いちばん楽になるのは、受け容れた本人なのですから。
私は、こうするべきだ、ああするべきだというような「べき論」として話をしているのではありません。
悩み・苦しみが多い人は、実は自分の思いがたくさんあり、それを想いどおりにしなければいけない。
思いどおりにならなければ嫌だと思う「思い」がたくさんあるという宇宙の構造や事実に気がついてしまったのです。
悩み・苦しみが多い人は、「思い」が強い。
あるいは「思い」をたくさん持っている人にほかなりません。
宇宙に、地球に、すべてを委ねている人、自分の思いや我儘(わがまま)をほとんど言わないで、静かに穏やかに穏やかに淡々と暮らしている人ほど、悩み・苦しみは少ないのです。
ほとんど悩んでいなくて、苦しんでいなくて、いつも笑顔で静かに穏やかに暮らしている人を私はたくさん知っています。
そういう人はほとんどの人が「思い」を持っていません。
思いどおりにしようという心が著しく少ない人ほど、楽に静かに楽しく生きることができるように思います。
最近よく 「登校拒否」という事柄に出会います。
友人の息子さん。学校を休むのは悪いことだと考えて、無理して学校に行って……「体が震える」と言われます。どれほどの苦しみでしょうか💦 行かなくていいという安心を早くわかってほしいと思います。
私が考えていることを、小林正観さんの文章から見つけました🎵
私が学んだことは、全ての事件は執着から始まっている。と。これは「愛情の押し売り」。
大きな『愛』で包むなら事件にはなりません。
相手の幸せだけを考えるから……
それに『情』を絡ませるから執着になります。
相手の幸せより、自分の幸せだけを考える事がどれだけ、真の幸せから遠ざかっているか……
受け容れる事が必要ですね。
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