担がれる人になる
人の心に灯りをともす よりシェア
小林正観さんの心に響く言葉より…
私たちは、人の先頭に立って活動していくとか、使命感、正義感をもって生きていきましょう、と今まで教えられてきましたが、その人が中心となって、ボランティア活動なり社会運動なりを使命感を背負ってやっているうちは、なかなかひろがりを見せません。
それをヴィジュアル的に言いますと、牽引車の列車が客車を何十両も引っ張っている状態。
その人自身が牽引車になってしまっているんです。
ところが、牽引車の力が強ければ強いほど、後に続く客車としてついて来る人たちは、自分の動力のモーターを使わなくなってしまう。
逆に、牽引車の力が弱ければ、客車ひとつひとつが自分の持っているモーターを動かしていかなければならないわけです。
その牽引車も、はじめは馬力があって情熱と使命に燃えて好きでやっているうちはまだいいんですけど、10年、15年、20年と経つと疲れてしまうようで、もうダメだって思ったときは切り替えると良いと思います。
それはどういうことかというと、徐々に牽引車から御神輿(おみこし)の側に変わっていくんです。
御神輿というのは、いつも担(かつ)ぎ手がいますよね。
神輿に乗るというのは、「担がれる人になる」ということです。
運ばれていくだけのポジションになるということ。
でも、その人が強い牽引車のときは、その人だけが活躍しているだけなので、なかなか広がりを見せないんだけど、その人が神輿として担がれるようになればなるほど、担ぎ手が増えていくわけですから、自然に運動は広がっていきます。
でも、神輿というのは自分の意思だけでは動かないし、担ぎ手がいないと動かない。
じゃあ、担がれなかったらどうするんだ、運ばれていかなかったらどうすんだ、って思いますよね。
そこが使命感というところなんですけど、使命感はもっていなくていいんです。
それにもっと言えば、担がれなくてもかまわないわけです。
だって、自分が“実践者”として生きていくだけですから。
運動を広げようとか世の中を変えようとか、共鳴者、共感者を増やそうとか、そいう使命感のようなものを背中にズッシリ背負う必要がないんです。
一生懸命、活動を広げようとかいうよりも、「私はバカやってるんですよね」って言って「それがラクで楽しいからこのように生きています」というようなポジションでいると、担ぎたいと思う人や真似る人がどうも現れてくるみたいです。
本当に、運動なりエネルギーなりを広げたいのだったら、牽引車ではなくて神輿になることの方が良さそうで、何より楽です。
それは、伝えようと生きるのではなくて、ひたすら実践していって、その結果として担がれてしまうということです。
そういう動きは自然に広まると思います。
『宇宙が味方の見方道』弘園社
小林正観さんは、「実践者・マザーテレサ」について本書の中でこう語っている。
『マザーテレサは肉体があるうちは、マザーテレサの周りにたくさんの人が集まっていました。
彼女は貧しい人々の介護を通して、そういう実践という形を通して、大きな影響を与えた。
その結果として、マザーテレサが死んだ後には、彼女の周りにいた人たちやボランティアをしていた人たちは、母国に戻って、それぞれがプチ・マザーテレサになったんです。
逆に、マザーテレサが肉体を失ったことで、その教えを受けた人たちはみんな散らばって、その意思を継ぐようなことをやり始めました。
もちろん、マザーテレサが亡くなったことを悲しむ人がいるけれども、肉体の死の悲しみを超えて、いかに生きていくかを考えた人たちもいました。
その結果、自分たちが祖国に帰って、それぞれが小さなマザーテレサになったというのは、マザーテレサがものすごく大きなものを残していったということではないでしょうか。
彼女が亡くなった後、そういう広がりを見せたということは、そのやり方が本物だったからでしょう。
マザーテレサは神の愛を伝える「メッセンジャー」であるとともに、ただひたすら実践者「ジッセンジャー」であり続けた人であった。
人が亡くなってその真価を問われるのは、いかに実践者として生きていたかということだと思います。』
昨今は、様々な組織において、会長や役職者を選ぶときなど「自分から立候補する人」も多い。
立候補ではなく、周りに押されて会長や役職者なるというのは、古めかしくて、あまりに日本的で、民主的ではないような感じがしてしまうのも事実だ。
しかし、組織を構成する一人ひとりの能力が上がり、力をつけ、その結果組織自体が活性化するには、あまりトップが強烈でない方がいい。
なぜなら、その人に引っ張られ、まわりは頼ってしまうからだ。
だから、強烈なリーダーがいるうちは芽が出なかった人が、いなくなった途端、能力を発揮する人が多い。
こんな人材が眠っていたのか、と。
上司が、力み過ぎていたり、有無を言わせず引っぱっていくようなタイプだと、部下は育たない。
方向性さえあっていれば、好きにやらせる、というのが御神輿に乗るタイプだ。
「忠臣蔵」で有名な、赤穂浪士のリーダーである大石内蔵助は、昼行灯と呼ばれた。
何を考えているかわからないようなボーっとした人物だったからだ。
しかし、47人もの浪士を束ね、秘密裏に仇討を決行したそのリーダーシップは高く賞賛されている。
まさに、担がれる人だ。
ときには、ぼんやりしているように見えたとしても…
まわりから、担がれる人になりたい。
「担がれる人」 そんな大それたことは望んでいません😄
でも……誘われたことは「はい」と受けています🎵
テレビで渡辺謙さんに、「どんな人生を望んでいますか❓」という質問に、「50歳過ぎてからは、自分がどうなりたいとは思いません」
「誘われたことを引き受けることで世界が広がりました❣️」 言われます‼️
今 私は、幸せな毎日を過ごしています🎵 年が開ければ70歳になります❣️
「どうしてそんなに幸せそうなの❓」言われる方もあります😱 そんな方が一日も早く、不安なく毎日を過ごすことができるように祈るばかりです🙏🙏🙏😄
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